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    <title>Space Design Lab. Member Column</title>
    <link>http://www.sd-lab.jp/clms/</link>
    <description>Space Design Lab. に参加している各メンバーのコラム</description>
    <language>ja</language>
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    <category>Weblog</category>
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      <title>Space Design Lab. Member Column</title>
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    <item>
 <title>13</title>
 <link>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=16</link>
<description><![CDATA[またもや朝日新聞の記事から。朝日新聞に興味をそそる題目がいくつもあったので、このあと数回は朝日新聞の記事を見てのコラムになると思う。<br />
<br />
<br />
<br />
　特に今回はコラムを読んで、コラムを書くという何とも不思議な感じだが、私自身が最も関心を持っている分野であったので書くことに決めた。<br />
<br />
<br />
<br />
「ネットに『命』吹き込む」という題で書かれていたそのコラムは、ある男の子を一人主人公に挙げていた。その男の子はひきこもりで学校にも行かないが、友達は大勢いるという。<br />
<br />
<br />
ではなぜ外に出ようとしないのか。何がいやで外に出ないのか。友達がいて、楽しく過ごせるのであれば、それでいいじゃないか。私はそう思った。しかし、続きの文章にはこうあった。<br />
<br />
「ネットの中のハナシ相手だ。文字だけのコミュニケーション。互いに顔も本当の名前も知らない。」<br />
<br />
<br />
　これは、ラジオ番組の「学校掲示板」と名付けられたBBSで、日夜「心の声」が書き込まれるという。BBSに書き込んだリスナーと、番組で電話をつなぎ、「肉声」を引っ張りだすらしい。パーソナリティとだけでなく、書きこんだリスナー同士を直接会話させることもあるらしい。そして、私はそのあとに書かれていた文に注目した。<br />
<br />
「その瞬間、ネットでは雄弁だった子たちが、ドキマギしてなかなか話せない。」<br />
<br />
<br />
<br />
　思ったとおり、といえばそれまでだが、やはりそうなのか、という一種落胆に似たような気分になった。ただ、今まではネット上の交流だけだったものが、こうして実際に音と音とで交流するまでになったことはものすごい進歩と言えるし、評価できることだと思う。<br />
<br />
<br />
以下引用。<br />
「メッセージ読んだよ。元気出してね。」<br />
<br />
「ありがとう。そっちも」<br />
<br />
　確実に命の鼓動が芽生える。シーンを体感したリスナーたちの書き込みも生きた言葉に変わる。<br />
　ネットは今の10代の遊び場だ。だからこそ、そこに「教室」を作った。本当のつながりを教えるために。<br />
　ラジオという「生の声」。虚構に、命の息吹を流し込む。<br />
引用終了。<br />
<br />
<br />
「虚構に…」という文章を見て私は、世の中の大人もその点にしっかりと気付いているのだな、と思い安心した。やはり、ネット上における文字だけの交流は、現実世界ではない。相手の感情もの何もあったものじゃない。そこに存在するのは自分だけだ。いや、自分自身すら存在しないかもしれない。<br />
<br />
　しかし、「本当のつながり」は音だけなのか。そうではないだろう。やはり「現実の声」でコミュニケーションをとるようになった進歩は、認めるべきだが、実際に同じ“場”においてコミュニケーションをとる、ということをやってみたらどうだろうか。<br />
　もちろん社会に出たら、音だけのやり取りもあれば、文字だけのやり取りもある。しかしそれらのやり取りは、同じ“場”でのやり取りがしっかりと出来る人には、できることだ。だが、逆は違う。<br />
<br />
<br />
<br />
　現実世界で生きていくためにはやはりface to faceというワードがとても重要なのだ。そのためには、今回のラジオの「学校」ではない、もっともっと良い方法があるはずだ。それが、実際に会って会話することなのか、それとも別の方法なのかはわからない。ただ一つ言えることは、コミュニケーションスキルは体験して得るものである、ということだ。<br />
<br />
]]></description>
 <category>コラム</category>
<comments>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=16</comments>
 <pubDate>Thu, 18 Dec 2008 10:43:13 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>12</title>
 <link>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=15</link>
<description><![CDATA[ある日の朝日新聞の記事にこんなものがあった。福岡研飯塚市立庄内生活体験学校というものを特集した記事で、「集団の中で『自分』を学ぶ」という題名がついており、おもしろそうだったので目を通してみた。<br />
<br />
<br />
　記事によると、市内の小学生が数人単位で寝泊まりして共同生活をする場で、合宿生活をしながら学校に通う「通学合宿」の草分け的存在らしい。参加する子どもたちは自分のことは自分で賄わねばならず、食事も職員やボランティアの手を借りながら自分たちで作るようだ。<br />
<br />
<br />
「牛肉を出して」<br />
「これ？」<br />
「それ、ベーコン」<br />
<br />
思わず新聞を見て少し笑ってしまったが、確かに知らないものは知らない。私たちは知っているから「牛肉」と「ベーコン」の違いがわかるのだ。<br />
<br />
<br />
<br />
　理事長の正平さんは、「どれくらい力を入れれば、苗は抜けるのか。重いものを運ぶ時、どう手伝ったらよいのか。今の子供は学ぶ機会が少ない。生活体験学校にいる間は、いろいろな体験をしてもらう。」と話しており、丸太運び、竹炭用の竹切り、風呂沸かし、畑作業などを行うらしい。もちろん生活の一環として、掃除や洗濯も行わなければならない。みんなが働いている中でサボっている子がいる場合はきちんとしかる。そこから集団の中で自分の役割を学ばせ、助け合うことの大切さを知ってもらうことが目的のようだ。<br />
　そして、最初は何もできなかった子が、あいさつをし、自分で洗い物をするようになるという。<br />
　この体験学校は、子供だけでなくこうした子供の変化を通じて親にも「働くことや自立の意味」というものを気付かせるきっかけづくりの役割を果たしているのだ。<br />
<br />
<br />
<br />
　正直な感想として、良い取り組みだとは思うが、果たしてどれだけの数の子が参加するのだろうか、とも思う。少人数が原則だし、そもそも積極的にこのプロジェクトに参加する人が“たくさん”いるとはどうしても思えない。都会であればなおさら難しいだろう。<br />
　しかし、それでもこの取り組みは良いと思う。何かここからヒントを得られるのではないか、そう感じる。<br />
　現実問題として、丸太を運んだりだとか、竹を切ったりだとか、そんなことはしない。誰もしないという言葉は違うかな。多くの人はしない。確かに集団でどのように生活していくのか、自分の役割とは何なのか、コミュニケーションの取り方を自然と学べる。成長できる。その点では、この体験学校は素晴らし意義を持っている。<br />
<br />
<br />
<br />
　今だからこそ、このような教育が必要だ。<br />
<br />
<br />
<br />
　確かにそうだろう。ただ、何かしっくりと来ない。<br />
<br />
<br />
<br />
　おそらく時代に逆行しすぎているのではないか。確かに歴史は重要だ。私自身も好きだし、今現在は過去の上に成り立っている。もちろん過去から学ぶべきことはたくさんあるのだ。<br />
<br />
<br />
　しかし、過去から学ぶべきものを一つでも間違えると時代おくれ、もしくは全く時代にそぐわないものになってしまう。今現在、誰しもが感じるようにITの時代である。ITなくして人は生活できなくなった。ただ、そこからいろいろな問題が生まれている。<br />
　その問題を解決するためには過去から学ぶべきだ。いや、過去の中に隠されているだろう。私自身もまだ何もつかめていないので、何も言うことはできないが、この記事の体験学校の中にそのヒントがあるような気がするのだ。<br />
<br />
]]></description>
 <category>コラム</category>
<comments>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=15</comments>
 <pubDate>Thu, 18 Dec 2008 10:42:33 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>11</title>
 <link>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=14</link>
<description><![CDATA[　久々のコラムになってしまった。最近は大学の授業内で行われるグループワークの仕事の忙しさが尋常ではなく、またコラムにするようなネタが見つからず更新を滞らせてしまった。今回はmixiニュースを読んで、というちょっと情報源が怪しいところだが、まぁ結構いいことを言っていたので少し自分なりに考えてみた。<br />
<br />
<以下引用><br />
　1988年から89年にかけて、東京・埼玉に住む幼女4人を次々に誘拐、殺害し、遺体を食べるなどの凶行に及んだ宮崎勤。04年、奈良研に住む女児を誘拐、殺害した後、遺体の写真をメールに添付して、母親の携帯電話に送りつけた小林薫。01年、授業中の大阪教育大学附属池田小学校に侵入し、手にした刃物で児童、教師を次々に刺し、8人を殺害した宅間守。<br />
　―――中略―――<br />
　なぜこの3人かというと、家庭、特に父親との関係が複雑であるとか、社会的に弱い存在である子どもを狙った犯罪であるとか、すごく共通性があるからです。」両親をニセモノと呼んで忌避し、父親の自殺に「胸がスーッとした」と語った宮崎。最愛の母の死後、父親に突き放され続けた小林。権威主義的な父親に激しい体罰を加えられ、幼いころから反発していた宅間。3人とも、精神鑑定で「反社会性人格障害」と診断されている。つまりは社会との関係をうまく保てないということだ。<br />
<引用終了><br />
<br />
　どうだろうか。いずれも凶悪犯も、“父親”という存在がその後の彼らの人生に悪い意味で大きな影響を与え、社会との関係をうまく保てない、つまりはコミュニケーションを円滑にとることができない、そういった人間になってしまったという背景を持っている。この家庭で影響を受け、コミュニケーション能力が欠如した大人となり、社会でうまく生きていくことができない、という問題は今現在も問題となっていることであり、20年も前から続いている問題であることに正直驚いた。これは、その家庭の父親（もしくは母親）が悪い、というだけで済まされる問題ではないだろう。<br />
もちろん、いくら障害があるからと言って最終的には罪を犯した者が悪いのであり、その障害の原因となる親が悪い。しかし、家庭でどのようなコミュニケーションをとればよいのか、どのような教育を施していけば良いのか、わからないのではないだろうか。本来であれば、ゆっくりゆっくりとその時代に合わせて生活スタイルが変化し、その時代に合ったコミュニケーションをとることができた。どうやら、その“ゆっくり”には人間の適合能力が追い付けるらしい。だが、ここ数十年はどうだろう。今までの歴史を見て、急激な変化と言えるのではないだろうか。車の普及や交通機関の発達により、移動速度が格段に上がり、洗濯機、冷蔵庫、掃除機、電子レンジなどの便利な家電製品の登場により、母親の仕事が変化、そして最近ではコンピュータ、インターネットの普及、携帯電話の普及などのITの登場により、仕事のやり方が変化したのはもちろん、そのITを使用した成金が登場し、携帯電話やインターネットにより子どもをはじめとしたコミュニケーション方法が変化した。<br />
これだけの短期間でこれだけの変化。確かに私たちの生活はこの短期間でかなり便利になり、どんどんいろいろなものが登場し、便利になりつづけている。しかし、生活面での恩恵を受ける一方で、それを利用した生活スタイル、コミュニケーションスタイル、というものを確立できていないのではないだろうか。私自身もそうだが、家庭内でどのように日々を送っていくのがいいのか、昔より格段に家事を行うスピードが上がったけどどうすればいいのか、子供をはじめ人とどのようにコミュニケーションをとっていけばいいのか…。<br />
<br />
その問題を解決しなければやがて大変なことになるだろう。歴史は繰り返す、とよくいわれる。産業革命と呼ばれる大変化ののち、人々は100年以上にわたり争いを続けてきた。<br />
<br />
]]></description>
 <category>コラム</category>
<comments>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=14</comments>
 <pubDate>Thu, 18 Dec 2008 10:42:12 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>10</title>
 <link>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=13</link>
<description><![CDATA[やばい、授業がつまらない。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
でも、ある授業の参考文献にうるおぼえだが「中学・高校の授業や、大学の必修、一般教養などを学ぶ意味などないと感じている人は多いかもしれないが、将来直接的に関わることはなくてもこうした知識の積み重ねからアイデアは生まれる」というような意味の文があった。アイデアは元からある要素の中から新しい組み合わせを作ることで生まれる。つまり、要素をなるべく多く知っておくにこしたことはない。まぁそういうことだろう。<br />
<br />
<br />
<br />
当たり前のようだが、なかなかそう思えないのが現実だ。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
現実。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
そもそもの定義とはなんなのだろうか。昔は簡単だったはずだ。今あるものが、現実。それだけだった。<br />
<br />
<br />
<br />
が、今はITがある。ゲームは現実世界ではない。…では、インターネットはどうだろうか。その中でもメールはどうだろうか。他の通信手段ではどうなのだろう。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
インターネットでは、実際に人と人がつながっている。現実世界ということでいいのだろうか。一つ“掲示板”という例を挙げる。掲示板は「顔を合わせることなく」やりとりする。情報交換もあれば、あるTV番組などについて討論することもある。<br />
<br />
「現実から逃れたい」<br />
そういう理由で、掲示板などに書き込みを行っている人がいると聞く。そういう場合は、その人にとってインターネットを通じた“掲示板”という「場」は現実ではないのだろう。<br />
<br />
<br />
では、メールはどうだろうか。おそらくメールは知り合いとでなければ言葉を交わすことはないだろう。<br />
<br />
しかし、例外として出会い系サイトなどがある。これらの中にも現実から逃れたいがために使用する人がいるらしい。この場合も上記の掲示板の例と同じだろう。<br />
<br />
<br />
IT革命のさなかにおいて、現実と非現実との境目がとても曖昧になってしまった。私はそう思う。<br />
<br />
]]></description>
 <category>コラム</category>
<comments>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=13</comments>
 <pubDate>Thu, 18 Dec 2008 10:41:50 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>9</title>
 <link>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=12</link>
<description><![CDATA[　最近XMLや言語の勉強をしている。言語は英語もそうだが、プログラミングなども行っている。すべて参考書を購入し独学でやっているのだが、英語はとくに中学・高校の時の授業よりも集中できるしやる気がでる。TOEICで点数を取りたい、という目標ができたからかもしれない。昔では考えられないような目標だが…（笑<br />
XMLやプログラミング言語はもちろん難しいのだが、やはりSFC出身としても恥ずかしくないように、また将来的には一から自分でウェブページを作りたいのでぜひとも習得したい。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
やはり、何か“やりたいこと”というのがあると人間変わってくるみたいだ。正直、2.3年前の自分が今の自分を見たらビックリするのではないか、と思う。部活を引退した後も生活が劇的に変化したが、大学に入ってからの方が変化が激しい。人と人との出会いは偶然、当たり前かもしれないが私もそう思う。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
たまたまあの飲み会に参加していなかったら、今の充実した自分はいないはずで、もちろん今やっているようなこともできない。そう思うと、あの時違う言葉を発していたら。あの時飲み会に参加していなかったら。違う人生が待ち受けていたのかな、と思う。当り前のことだが、これは体験した人にしかわからない。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
そう。自分自身の将来を決めるのは自分。…だけではない。そこにいろいろな人が関わって、いろいろな偶然が折り重なって決まっていく。それは、その「場」にいて体験した人でないとわからない。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
無駄なこと。<br />
<br />
<br />
<br />
そんなものはないと思う。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
無駄だ、とわかったことが収穫なんじゃないかな。<br />
その瞬間、次にやることが明確になる。先にこんなことしないで、あれから始めればよかったね。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
今日の国会図書館もそんな感じでしょう。国会図書館なんて行く機会がまずないし、いい経験だったんじゃないかな、と前向きにとらえよう。<br />
次につながる大事なプロセス。コミュニケーションだってそうだ。「無駄話」という言葉があるように。でも、相手との関係を築く上で決して無駄ではない。その時は無駄だと思うかもしれないけど…<br />
<br />
]]></description>
 <category>コラム</category>
<comments>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=12</comments>
 <pubDate>Thu, 18 Dec 2008 10:41:22 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>8</title>
 <link>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=11</link>
<description><![CDATA[　新聞というものは記者がどれだけ中立の立場でおもしろく書けるか、その手腕が問われるものだ。中にはかなり偏った記事もあれば、逆に中立すぎてつまらない記事もある。正直すごい仕事だと思う。しかし、たまに許せないような記事を改ざんするような事件も起きている。新聞を読む者は、しっかりと自分の考えを持ってからではないといけない。明治の頃はそのようなことが言われていた。もちろん時代が違うため、新聞というもの自体の意味も多少異なっているのだが、今の時代にも少しばかり通じる様な気がする。簡単に流されるな、ということだ。しかし、客観的に新聞というものを見てみると実に面白い記事が多い。<br />
<br />
<br />
　「囲われた街 買う安心」、「富裕層 地域に壁」、「社会との隔離 懸念の声」。そういった記事が目に飛び込んできた。こんなものが一面に書いてあったら読みたくなってしまう。<br />
<br />
<br />
<br />
　簡単に要約するとこんなことだ。<br />
<br />
　日本のマンションの警備は緩い。そこで、アメリカのゲーテッドを真似したものを取り入れたのだ。ゲーテッドとは外周をぐるりと柵が取り囲み、赤外線センサーが設置され外部の人間は自由に出入りすらできない「要塞の街」だ。日本では、アメリカのように土地が広いわけではないので、それをマンションで実現しよう、ということになった。しかし、懸念されるのがもともとある地域のコミュニティーの分断だ。地域住民からは、要塞の中の住民だけが安全にすごそうという方法に賛成できないという意見すら出ている。<br />
<br />
<br />
　どうだろうか。少し簡単に書きすぎたかもしれないが、だいたいの内容はわかっていただけただろうか。つまりは、“要塞内”における新たなコミュニティーの設立である。それとともに起こるのが地域コミュニティーの分断である。これには賛否両論があるだろう。<br />
　もし、自分が富裕層と言われる立場で過去に危険を感じたことがあったら。と思うと、正直この“要塞”に住みたいと思う。まぁ、危険を感じることがある時点で世の中がおかしいのだが、それは今回触れないことにする。<br />
　もし、自分がその地域の住民でこのような“要塞”ができたとしたら。もちろん心地よく思うはずがない。あの敷地内にはどんな人が住んでいるのか、どのような仕組みになっているのか知ることができない。同じ地域に住んでいるのにこれほど気持ち悪いことはない。<br />
<br />
そもそも地域のコミュニケーションとはなんなのだろうか。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
マンションができてから変わった、そんな気がする。自分自身がマンション出身なので偉そうなことは言えないが、マンションによる変化は確実なことだろう。私が生まれた時はすでにマンションがあったため、このような近所づきあいは当たり前のような感じになっているが、その昔はどうだったのだろうか。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
いつも私は思うのだが、もちろん便利な生活というものは必要で過去から現在、そして未来へと進化し続けていくべきだと思う。しかし、その中ですべて捨てられていっていいものなのだろうか。未来に残していくべきこともたくさんあるのではないだろうか。それが、我々が歴史を学ぶ意味なのではないだろうか。だから1192年鎌倉幕府成立。なんてものはどうでもいいのだ。もっともっと学ぶべきことはたくさんあるはずだ。それが、四十万さんのおっしゃる逆さ歴史、の私なりの解釈である。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
過去から現在、そして未来。なにも連結することがなければ、ただの断片だ。本当にそうなのだろうか。私は決してそうは思わない。同じ人間が過去の過ち、もしくは成功を未来の自分で生かすのと一緒だ。もっと大きなスパンでみる、それが歴史なのではないか。<br />
<br />
]]></description>
 <category>コラム</category>
<comments>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=11</comments>
 <pubDate>Thu, 18 Dec 2008 10:40:58 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>7</title>
 <link>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=10</link>
<description><![CDATA[　韓国で、またもや芸能人が自殺したというニュースが報道された。何人目だろうか。原因はどうやらインターネット掲示板への誹謗中傷の書き込み、というものらしい。<br />
<br />
<br />
<br />
　無視をすればいいではないか。<br />
<br />
<br />
<br />
　そう思う人もいるかもしれない。しかし人間である以上そんなことはムリだし、そして何よりも韓国の掲示板は日本のそれよりもひどいらしい。公式ホームページの掲示板にすら誹謗中傷（反対意見ではなく）が書き込まれているくらいだ。では、なぜそういう誹謗中傷の書き込みが日本を含め絶えることがないのだろうか。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　韓国では、歴史的な背景（目上の人にはすごい礼儀を重んじる風習など）から言いたいことがなかなか言えない社会背景がある、ということが報道されていた。歴史的背景は置いといて、日本にしても韓国にしても、言いたいことが言えずストレスが溜まり、それがインターネットへの書き込みにつながる、ということだろう。ストレス発散、というわけだ。なぜ、普段言いたいことが言えないのにもかかわらず掲示板では言いたいこと（さらにひどい口調になることが多いだろう）を書けるのだろうか。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　その答えは簡単だ。<br />
<br />
<br />
　「顔」が見られないからだ。自分が言っていることだ、と悟られない。だからこそ無責任なことが言えるのだ。それは2chなどで見られる一部の書き込みもそうではないだろうか。<br />
<br />
<br />
<br />
　私は普段からこのようなことを危惧しているのだ。コミュニケーションツールと呼ばれるもの…。普段と違う気持ちで書き込める、顔が見られないからだ。そんなものをコミュニケーションをとるための道具といえるのだろうか。これは、本来のコミュニケーションではないのだ。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　何回も言っているように、普段家では言いたいことが言えるのに、実際人に会うと言いたいことが言えない…。しかし、実際問題として生活していく上で人とコミュニケーションをとらなくてはならない。<br />
<br />
<br />
<br />
　そういったところから数々の悲惨な事件、自殺が起きてしまっているのではないか、私はそう言いたいのだ。だからこそ、“ITとコミュニケーション”というのはこれから本気で考えていかなければいけない。ある授業で紹介されたいい言葉がある。<br />
<br />
“One cannot NOT communicate”人はコミュニケーションせずにいられない<br />
<br />
　まさにその通りではないだろうか。生まれてから死ぬまで誰ともかかわらずに生活していく人を知っているだろうか（もしいたとしても誰ともかかわらないので誰もその存在を知らないはずだが…）。誰ともかかわらずに生きていくことは可能なのだろうか。ぜひ、一度真剣に疲れ果てるまで考えてもらいたいテーマだ。自分なりの答えを出してほしい。しかし、最終的な答えは“One cannot NOT communicate”だろう。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　日本だけではなく、韓国でもこのような事態が起きていた。まぁ当然と言えば当然かもしれないが、人類が生み出したネットワークにまだ人類が対応できていない、というのが実情だろう。いろいろなものが開発されてきているが、どれも似たり寄ったりだ。テレビ電話なんてふざけたもので遊んでいる場合じゃない。<br />
<br />
コミュニケーションそのものではなく、コミュニケーションをサポートするようなもの、それが必要なのではないだろうか。私はそう感じる。<br />
<br />
]]></description>
 <category>コラム</category>
<comments>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=10</comments>
 <pubDate>Thu, 18 Dec 2008 10:40:32 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>6</title>
 <link>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=9</link>
<description><![CDATA[前々から、現代のコミュニケーションを改善していくには子供の頃が重要だという話をしてきた。そのためには「家庭」がとても重要である、ということは誰しもがわかるはずだ。<br />
<br />
<br />
　だが、現在多くの子供が塾に通って中学受験を目指しているのは周知の事実である。勉強に追われ、家庭で多くの時間を過ごせず、夕食すらともに食べられない日が多くなる。さらに、少子化の問題も重なり、塾に通い始める子がどんどん低年齢化している。塾サイドが少ない顧客を確保したいから必死になっているのだ。そうすると、ますます家庭での時間が減る。正直、塾の低学年カリキュラムを見てもなぜ塾に行くメリットがあるのかを見出すことが難しい。しかも、受験勉強などはせいぜいもって3年だ。私は1年半で限界だった。塾関係者の話によると、親も6年間など持たないらしい。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　こうしてみるといいことはないように感じる。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　はたして本当にそうだろうか。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　やり方を変えてみたらどうだろう。現在、学校でも基礎的な国語や算数を行い、塾でも算数や国語を取り扱う。もちろん小学校4年以降は受験に向けた勉強、特に5年生以降は各教科とも受験色が強まっていくが、低学年の段階では勉強に親しむというか、慣れよう！というものばかりだ。勉強に親しむのに、なぜ学校でも勉強して、塾でも勉強する必要があるのだろうか。逆に嫌いになりそうな気もする。もちろん塾としての工夫も見える。しかし、今こそ“教育”というものを根本的に見直すべきではないだろうか。<br />
<br />
<br />
　この間、ある授業で「家では黒板に向かって勉強する」という非常に面白いアイデアがあがった。これをヒントに私は「座って勉強ではなく、立って遊ぶ」ということはどうだろうか、と考えた。一見普通だが、これを塾でやっている、となったらどうだろうか。正直言っていつまでも国語、算数、理科、社会ばかりやればいいというものではない。SFCができたのも、経済・商・法・理工だけではこれからダメだということが言われたからではないか。時代に合わせて変わっていかなければならないのだ。<br />
　子供が塾から帰ってきて「何と何を足したら５になると思う？」とか「この主人公の気持ちは何だと思う？」などと親に聞くと思いますか？<br />
<br />
<br />
　過ごす時間が少なくなってきていしまっているからこそ、親子のコミュニケーションを活性化させてあげる手助けをするべきではないのか、そう言いたいのだ。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　だからこそ「遊び」という言葉を入れたのだ。楽しみながらではないと意味がない。子供は素直だから、自慢したいことはすぐ親に言う。見せたがる。“展示会”なんていうのもおもしろいかもしれない。もうだいぶアイデアはあるし、あとはいろいろと話して詰めていこうと思う。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　ひとつ言い忘れた。これは「遊び」だが、「遊び」で終わってしまってはいけない。知らず知らずのうちに、溶け込ませるのだ。今一番求められている発想力をはじめとして、コミュニケーション力はもちろんのこと算・国・理・社をである。それは十分可能なことだと私は考えている。むしろ、算・国・理・社が勝手に入りこんでいるのだ。<br />
<br />
　私は、楽しみでしょうがない。日本の教育を根本から考え、そしてそれを実現する…。できたらいいな、ではやる。こんなに強気なのは初めてかもしれない。できそうな気がするからだろうか。まだ、大学1年生。もう大学1年生。いろいろな人に会って刺激されてるのかな。<br />
<br />
]]></description>
 <category>コラム</category>
<comments>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=9</comments>
 <pubDate>Thu, 18 Dec 2008 10:40:08 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>5</title>
 <link>http://www.sd-lab.jp/clms/?itemid=8</link>
<description><![CDATA[だいぶ前の話だが何かのニュースで（テレビ番組だったかもしれないが…）“におい”についての研究が行われており、世界に数多くある“におい”も何種類かの組み合わせで構成されている、ということがわかってきた。というものだった。つまり、化学と同じように元素のようなものが存在し、その組み合わせ方でさまざまなモノが出来上がるというのだ。まぁ、当たり前と言えば当たり前かもしれないが、それが解明されてことが近年と言うのにもまた驚いた。まだまだ“におい”の研究は発展途上なのだ。<br />
<br />
<br />
<br />
　ふと思い出したのでこのようなことを書いてみたが、自分でもわからないことだらけなので今度調べてみようと思う。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　さて、今日の余談は短く。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　私はコミュニケーションで一番大事なことはその「場」において感じ取ること、共感することだ、と述べてきた。つまり、人間の五感すべてを使用することで行うものなのだ。“におい”も例外ではない。コミュニケーションにおいて、もしかしたら“におい”は一番軽視されがちかもしれない。そう感じる方も多いのではないか。では、人とface to face で話す、コミュニケーションをとるときにどのような情報を一番重視しているのだろうか。<br />
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　感覚的に視覚や聴覚などといったものが占めそうなものである。たぶんそうだろう。だが、大半を占めるものだからと言ってそれだけなのだろうか。テレビ電話はどうだろう。視覚と聴覚を離れたとこらからでも一応感じ取ることができる。使っている方はどのような印象を受けているのだろうか。私はあまり使ったことがないのだが、あのテレビ電話を通じて怒られたとしても迫力がなさそうな気がする…。これは決してふざけているわけでない。何か実際に対面して怒られているのとは違う印象を持つ人が多いのではないだろうか。もちろんこれは推測の話であり、実際にデータがあるわけではない（のちに調べてみたいとは思っているが…）。<br />
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ここまでくれば、私が何を言いたいのか分ってもらえただろう。現在様々なコミュニケーションツールと呼ばれるものが存在する。昔からある手紙、電話などのものから先ほど挙げたテレビ電話、掲示板、メールなどである。<br />
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　文字だけのやり取りで勘違いを招いたことはないだろうか。<br />
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　もちろん文字だけのやり取りで済ませなければならないことはたくさんあるだろう。この世は忙しさの上に成り立っている。ただ、ITの発展によって本来なくてはならないものを失ってしまったような気がしてならないのだ。<br />
ITの発展によって生活は急激に変化し、そして便利になった。これからの時代、ITと私たちの生活は切っても切れないものなっていく。いや、もはやそうなっている。<br />
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急激に変化、発展したためだろうか。世の中には変化についていけていないものが多々ある。正しくいえば、ITでは未だに表現できないこと、だろうか。私はその一つがコミュニケーションであると考えている。いつの日にかITの力で対面しているのとまったく同じような環境が離れている場所にいてもできる世界がやってくるとは思うが、今現在は残念ながらそんなことはできない。そのため、先ほどコミュニケーションツールなどといったものが使用されることが多くなっている。もちろん離れた場所でも短時間で連絡できる手段であり、便利だからだろう。私もそうだが、直接会うよりもメールをやり取りすることの方が多い人もいる。<br />
一番初めのコラムに書いたが、秋葉原の事件などもこのようなものが原因で起きたと言われている。実際に会うとうまくコミュニケーションがとれない…。1回目に書いたことなのでここでは詳しく書かないが、実際問題として世の中で生きていくためには人と接して、向かい合って生きていかなければならない。<br />
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では、“におい”を離れた場所に伝えることができたら何かがかわるだろうか。実はこれが言いたくて長々と書いてきたわけだが…。まぁ、正直深いところまではやってみないとわからない気がするが、テレビなどでのグルメリポートなどはおいしさが言葉よりも伝わってくるのではないだろうか。これはあくまでも一例ではあるが、やはり相手に与える印象、言い方を変えると受ける印象が異なってくるのではないだろうか。<br />
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「認知科学」<br />
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どこまでできるものなのか私は全然知らないが、こういったことが研究できるように明日からの授業を頑張ろう。<br />
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 <category>コラム</category>
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 <pubDate>Thu, 18 Dec 2008 10:39:12 +0900</pubDate>
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 <pubDate>Wed, 17 Dec 2008 13:23:21 +0900</pubDate>
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